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安岡正篤 略歴

安岡正篤 略歴


明治
31年大阪に生まれる。東京帝国大学法学部政治学科卒業。在学中に出版した『支那思想及び人物講話』『王陽明研究』で世に知られる。


大正末期、東京小石川に「東洋思想研究所」を設立。当時の大正デモクラシーに象徴される西洋文明崇拝的で軽薄な風潮に対し、伝統的日本主義を掲げた。


昭和2年、国家を支える人材の育成を目的とし、安岡の考えに共鳴した有力者の支援を得て「金雞学院」を創設。推薦によって各地から選ばれた有為な青年に全人教育行う。安岡自身も院生と起居を共にし、己にも峻厳な生活を課した。 


昭和6年、「日本農士学校」を埼玉県菅谷の地(現比企郡嵐山町)に開校。東洋哲学に基づく農村青年の教育を行う。金雞学院で養成した人材を指導者に当てた。全寮制、午前中は羽織袴・正座で受講。午後は農作業という日課であった。


◯「日本農士学校」で安岡は、都市文明を離れ、大地に足を着けて東洋の古典・哲学を学び、己を修めて地方郷村・国家社会に真に役立つ人材の育成を目指した。頽廃的風潮が蔓延
(はびこ)る中、日本の精神的復興は、浮薄な都市文明に汚されていない農村の精神復興から成るという信念の実践であった。


昭和18年、「山鹿流政治論」を読売新聞に発表し、当時の東条内閣を批判。翌19年には、小磯内閣の強い要請により大東亜省顧問に就任。昭和20年8月、「終戦の詔書」の刪修を行う。

刪修=不要な字句又は文章を削り取って改めること。


安岡正篤が心魂を込めた「日本農士学校」も、敗戦による
GHQの「日本の伝統的なものはすべて破壊する」占領政策によって変更を余儀なくされる。安岡も公職追放。その後「日本農士学校」は、「財団法人日本農学校」「埼玉県立興農研修所」と名称が変わるも、「日本農士学校」の伝統を継承しつつ昭和38年まで続く。

GHQ=大東亜戦争終了後、日本に置かれた連合国軍の総司令部。


◯昭和24年、混迷した戦後の祖国を憂える道縁の人々の声に応えるべく、「師友会」(後に「全国師友協会」に改称)を結成。機関誌『師友』(後に『師と友』に改称)を発行し、「照心講座(月例)」「教学研修大会」等、全国各地での教化活動に尽瘁。一燈照隅行を展開して各地に大きな足跡を残す。


昭和45年、「財団法人郷学研修所」を創設し、「郷学」(※)の振興に努める。また、道を求める人や有縁の人に古聖先賢からの道を伝えることに尽力。政財界リーダーの啓発・教化・指導にも当たり、真正の指導者養成を目指す。昭和全期を通じて一世の師表(※)、天下の木鐸(※)と仰がれた。

郷学=それぞれの郷里の先賢に学び、その風土に培われている学問を振興して、確固たる信念と教養を持つ人材を養成すること。

師表=世の人の模範となること、また、その人。 木鐸=世人を覚醒させ、教え導く人。


古今東西の歴史と人物学を極め、透徹した眼で、人間と社会の本質を見抜いた所から発せられる現実の諸問題への的確な指摘は、まさに「活学」であり、その「人物学・人間学」に魅せられて教えを請う人は多数に上った。


昭和58年12月13日逝去。享年86。


現在は著書・講演録・講演のCDも多く出版され、人間として、また国家としてのあるべき姿を求める人々に、深い感動と人生の指針を与えている。
 

長老室にて

後列左から3人目、安岡先生。その右は吉川英治氏