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今週の活学語録 

♯Ⅱ-16 六時心戒(りくじしんかい)

 

(どう)時、心を錬る

靜時・心を養ふ

坐時・心を守る

行時・心を驗(ため)

言時・心を省す

動時・心を制す

―――――――――――――――『格言聯璧(れんぺき)』

 

騒がしい時、ごたごた取り込んでおる時こそ、それにめげぬように心を錬ることだ。

静かな時に心を養っておき、

坐る時には、心も動揺を鎮めるように守り、

行動する時は、心を実験する好機である。

もの言う時は、内心を反省せねばならぬ。

動揺する時は、散乱しやすい心をよく制馭(せいぎょ)すべきである。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――『百朝集』―

 

 

♯Ⅱ-15 面に見(あらわ)れ、背に盎る

 

人間は面より背の方が大事だ。

徳や力というものは先ず面に現れるが、

それが背中、つまり後姿―肩背に盎れるようになってこそ本物といえる。

後光がさすというが、前光より後光である。

 

人を観るときは前よりも後から観るのがよい。

前はつくろえるが、後ろはごまかせないからだ。

『照心語録』

 

参考〉
「仁義礼智、心に根ざす。その色に生ずるや、睟然として面に見れ、背に盎れ、四体に施き、四体言はずして喩る」(『孟子』人心章句・上)

 

小事と人格

 

人間の真実の正しさは、礼節と同様、小事に於ける行いに表われる。 

小事に於ける正しさは、道徳の根底から生ずるのである。

これに反して大げさな正義は単に習慣的であるか、

あるいは巧智に過ぎぬことがあり、

人の性格について未だ判明を与えぬことがある。


――
 
  ――   ―― (スイス/ヒルティー)

 

選挙演説会で国民大衆に大げさな正義を主張したり、

時局に便乗して巧みに事新しく筆陣を張る者があったとて、

ゆめゆめ偉い人かと迷わされてはならぬ。

その人の何でもない日用尋常の言動に良く注意をしよう。

案外化猫や古狸の正体が何でもないことにチラチラばれるものである。

偉大な修行などというと、どんな奇抜な人間離れしたことをすることかなどと思う間は、

まだ何も分かっておらぬのである。

尋常日用の工夫に徹するのが大修行なのである。

大いに悟りを開こうと思って、

先ず仏という偉大な者の秘義をつかもうとあせっておる僧に

趙州(じょうしゅう)和尚(唐末の名禅僧)は答えた。

朝飯は食ったか。

はい、いただきました。

食器をよく片付けなさい、

百朝集』

出処進退


古来節を全うす──全節ということ、特に晩節を大事にすることを重んずるのはもっともなことである。

仕事も出来、地位も上がるに従って、人間はますます欲も出れば、誇りも生じ、執着も強くなって、

その反対に後進を軽視し、不満が多くなり、また先輩を凌(しの)ぐ態度や行動も出がちである。…あさましいことである。(中略)

即ち世に処していかなることに邁進しようが[命]、良心の判断[義]を以て当たり、

禍福利害のために良心を害(そこな)うことをしない。

良心の判明するところ、進むべき場合は進む。退くべき場合は退く。

命というて自らを誤魔化さない。良心的に楽しければ行くし、憂える場合はこれを去る。

命などと逃げ口上を言おうか。

世間の富貴利達の境に沈んで、そこから出ることのできない者は、ともすれば命ということにかこつけて、

そして自ら誣(し)うる(=あざむく)者である。

それで、いつも我から禍にかかっていって、卒(つい)に悟ることが出来ない[以義処命=義を以て命に処す]。

名節の人間におけるは、金品では無い富であり、地位や身分とは別の貴である。

人物にして名節の無いのは女の不貞と同じ。いかなる暴災がつきまとってもやむを得ない。

他の美があっても贖(つぐな)うに足りぬ。

だから先輩は言うている。爵録は得易く、名節は保ち難いと。[風節]

『活眼活学』

大臣 (『経世琑言』安岡正篤著より)

 
―小人に国家を為(おさ)めしむれば災害並び至る」―
(『大學』)

 

 東洋政治の本義は民衆に対する論策よりも、

むしろ常に為政者自身の心術修養を重んずるにある。

 

昔、楚の荘王が、釣に隠れていた賢人の詹何(せんが)を聘(め)して

国を治める要訣を聞くと、詹何は「身を修める術」を以て対(こた)えた。

重ねて王が国を治める方法を問うと、彼は

「身が理(おさ)まって国乱るるものをまだ聞いた例はありません」

と言ったという話が『列子』や『貞観政要』などに出ているが、

会心の話である。

今日もまた、民衆を如何(どう)するかの案や策より、

大臣が如何なければならぬかの方が大切な根本問題である。

 

呂坤(明の哲人政治家・学者)はその著『呻吟語』に「大臣の六等」を説いている。

 

第一、寛厚深沈、遠識兼照、福を無形に造(な)し、

禍を未然に消し、智名勇功無くして、天下陰に其の賜を受く。

 

第二、剛明事に任じ、慷慨敢て言い、国を愛すること家の如く、

時を憂うること病の如くにして、

太(はなは)だ鋒芒(ほうぼう)を露(あらわ)すことも免れず、

得失相半(なかば)す。

 

第三、安静時(とき)を逐(お)い動(やや)もすれば故事に循(したご)うて、

利も興す能わず、害も除く能わず。

 

第四、禄を持し、望を養い、身を保ち、寵を固め、

国家の安危も略(ほぼ)懐(こころ)に介せず。

 

第五、功を貪り、衅(きん=ちぬる、あらそい)を啓(ひら)き、寵を怙(たの)み、

威を張り、是に愊(もと)り、情に任せ、国政を橈乱(どうらん)す。

 

第六、奸険・凶淫・煽虐・肆毒(しどく)、善類を賊傷し、君心を蠱惑し、

国家の命脈を断じ、四海の人望を失う。

 

第一は理想的達徳であって、真に造化的境地である。

日光や空気や水がなければ一日も生きていられないのに、

平素、人はそれを忘れている。

そして何かの時しみじみその有難さを覚える。

王者やその宰相の至れる者を譬うればこの如きものであろう。

 

第二には至公がある。創造的勇気と熱情とがある。

但しすでに造化の無限性が乏しくなって、局迫を免れない。

造化は激せず、躁がず、競わず、また随わぬ。

これがないと往往こと志と違う。

 

第三は創造力の停滞である。

気魄なく、熱情もない。平々凡々であるが、とにかく「公」に生きて、

まだ悪い「我」「私」がないだけ無難である。

 

第四に至ってはもはや「我」がある。「私」がある。

しかしその「我」「私」は公の中に於いて

いかに自己を維持してゆこうかという消極的なものであって、

それほど悪性のものではない。

この頃の名士の人格者と言わるる人にこの種の人物が多い。

 

第五になると、その我欲私心が頗る積極的になって、

その為に「公」を無視して憚らない。

 

第六はその最も甚だしいものである。

 

天下の患いは小人を宰相にするより大なるはない。

「小人に国家を為(おさ)めしむれば災害並び至る」と『大學』にも説いて居る。


昨今世間に喧しい何処かの知事の行状を耳にし、ふと安岡先生のこの言葉が思い出された次第)
 

♯Ⅱ-14 質文に勝てば

質文に勝てば則ち野(や)なり

文質に勝てば則ち史(し)なり

文質彬彬(ひんぴん)として然る後に君子なり
    ―――― (『論語』)

 

人間には質と文とがある。

質は言うまでもなく内に実存するもの、

即ち内実であり、内実の表現が文に外ならない。  
――   ―――― 『論語に学ぶ』

 

その質と文がよく調和されてをるのが彬彬であって、

文質彬彬として然る後に君子だというのです。

 

然し人間は、…いづれかに偏するものである。

 

こういう文明文化の危機を救うためには…、質を文に勝たしめるとも、

文をして質に勝たしめないのが確かによろしい。

――   ―――― 『朝の論語』

 

――   活学語録カレンダー〈第2集〉所収

♯Ⅱ-13 読書三上

 

古人は「三上」ということをいっています。

 

一つは「枕上」。

寝るときには、心の養いになるような、

自分の研究や趣味に参考になりそうな、なるべく精神的なものが良い。

 

その次は「馬上」。今日なら車上だ。

 

第三は「厠(し)上」。便所です。

これは物を考えるのにやはり好い所で、本を読むにもまことに宜しい。

其の本もなるべく短い語録のようなものが良い。

あるいは詩歌の類も宜しい。

 

どんな忙人にでも、寸陰というものはある。

…そのちょっとした時間をつかむのです。

 

  ―――― 『青年の大成』


 ―――――活学語録カレンダー〈第2集〉所収 

♯Ⅱ-12 神明は即ち…

神明は則ち日の升るが如く

身體は則ち鼎の鎮するが如し

  ―――― (曾國藩)

 

曾國藩は毎日何時に拘わらず静坐を欠かさなかった。

これによって、彼はそのいわゆる「鼎(かなえ)の鎮する」ごとき工夫を積んで、

「日の升る」ごとき清明を養いつつあったのである。

  ―――― ――『東洋的志学』

 

静坐はいわゆる臍輪氣海丹田腰脚足心を充実せしめ、精神をして自由に、旺盛にする。

曾國藩の言葉を借りて言えば、

「神明はすなはち日の升るがごとく

身體はすなはち鼎の鎮するがごとく」ならしめる。

  ―――― ――『東洋思想と人物』

 ―――――活学語録カレンダー〈第2集〉所収 

  ――――活学語録カレンダー/第2集 所収〉―――― ――――

♯Ⅱ-11 正誼明道


仁人は其の誼を正してその利を謀らず

其の道を明らかにして其の功を計らず

  ―――― ――――(董仲舒)

 

 誼とは言葉の宜しきを得ることで、

道義の義に通ずる語であります。

…決して利というものを問題にしないとか、

功というものを抹殺するという意味ではない。

正誼・明道と功利とのどちらを主眼にするかということであります。

普通の人間は功利を主眼にするが、仁人はその逆で、

正誼・明道を建前にして、

その結果どういう利益があるか、

というようなことは自然の結論にまかす。 

『大学と小学』

 ――――活学語録カレンダー〈第2集〉所収

♯Ⅱ-10 天に棄物無し


用にもいろいろあるが、
有用の用ばかりでなく無用の用というものもある。

いろいろ物事についてたえず心がけて、
何事によらず工夫をしておると、
どんなものでもみな棄てるものがない。 

天地間のあらゆるものには、必ずそれだけの素質と機能がある。
天地万物一つとして無用なものはない。
無意味なものはない。必ず
意味効用がある。 

どんな人でも、必ずこれは絶対のもの。
すべてが個性的存在・独自の存在であります。
だから絶対に他にない、独自の意義・機能・使命というものがある。 

先ず自分がどういう素質・能力を持ち、
如何なる役に立つか、
ということを解明することであります。


『人生と陽明学』


 
――――活学語録カレンダー/第2集 所収〉

 

♯Ⅱ-9 任性逍遥…

 

任性逍遥

隨縁放曠

但盡凡心

無別勝解

_________(((天皇道悟)

 

性に任せて逍遥し

縁に隨って放曠す

但凡心を盡すのみ

別の勝(聖)解無し

 

世の常の心を遺憾なく発揮する、

本性のまま逍遥することであります。

縁に隨って放曠する。

一切は縁起であります。縁に随って任せる。

必要などと別にあるわけではない。

ただ世の常の心を遺憾なく発揮するだけのことである。

 

徳山はこういう心を称して無心と言っております。

 

※逍遥…自適してたのしむこと。 

放曠のんびりとこだわらぬこと

徳山…徳山宣鑑和尚。最澄や空海とほぼ同時代の唐僧。四川省の人。「徳山の棒」で知られる。


――――――――――『論語・老子・禅』

 

 ――――――活学語録カレンダー/第2集 所収〉

♯Ⅱ-8 人間の真実の正しさは…

 

人間の真実の正しさは、礼節と同様、

小事に於ける行いに表れる。

 

小事に於ける正しさは道徳の根底から生ずるのである。

これに反して大げさな正義は単に習慣的であるか、

或は巧智に過ぎぬことがあり、

人の性格について未だ判明を與えぬことがある。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(ヒルティ)

 

人間の本当の正しさは、ちょっとした日常の挨拶や振る舞いに現れ、

何でもない行動に、案外人間内容やその背景を知ることができるものです。

これに反して、大層偉そうな大袈裟なことを言う者は当てになりません。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『経世と人間学』

ーーーーーーーー活学語録カレンダー/第2集 所収〉

♯Ⅱ-7 事上磨錬

人は須らく事上に在って磨くべし

                                          (王陽明)

 

体験の事実によって鍛えていくこと。

実際問題に対処しながら自分を磨く、錬ることである。

『王陽明』

 

程朱の学では静坐澄心を重んじる。

王陽明もその静を重んじるが、同時にこの事上磨錬を説く。

これは動的修養といわれるものであって、陽明学の積極的な一面を示す。

陽明学が実際的であり、行動的な性格を持つのは、

事上磨錬を説き、知行合一を説いて、

生活そのものを修養の場とするところにある。

『伝習録』

活学語録カレンダー/第2集 所収〉

 

♯Ⅱ-6 雲山蒼々…


雲山蒼々

江水汪汪

先生之風

山高水長 ーーー范仲淹=はんちゅうえん)

 

范仲淹が嚴子陵(げんしりょう)を賛したこの詩句は、当に人間の木鶏的境地、
人品の究竟(きゅうきょう)を表す語と云うべきであろう。

然し勿論我々の人格がそこまで洗練され造詣されることは容易でない。

 利や名や色や権勢を求める物欲は、常に人を紊(みだ)り易いものであるが、
世間固より同理である。

独を清くし、拙を守り、人のために労し、人の美を為す人は中々得難くて、
名利の徒のみ多く、嫉妬配擠(はいせい)怨恨橘詐(きっさ)の止む時は無い。

 ここに於いて一旦人間と生まれた身の最早素朴な動物的自然に立ち返ることは出来ず、
さりとて深遠な人格的自然に造詣することは無限に遥かであり、
ついに、あるいは悶々たる厭世の情思を懐き、
あるいは枯淡な隠逸となり、
あるいは放縦な虚無自然主義者となっても
只管(ひたすら)自然を尋ねて生きるようになるのである。

そこで善かれ悪しかれ真剣な生活者で自然と熱烈な交渉を持たぬ者は
東洋に無いと云って宜しかろう。

 人生愛する者程深く人生を厭(いと)い、自然を慕う。

――――――――――――――――――――――――――――東洋倫理概論

――――活学語録カレンダー〈第2集〉所収

♯Ⅱ-5 五醫


費を省いて貧を醫(いや)す

靜坐して躁を醫す

縁に隨って愁を醫す

茶を煎じて倦を醫す

書を讀みて俗を醫す

格言聯璧―

  

現代の病的生活を救う好医療である。

名医はちゃんと自己内奥の浄室に居るのである。

書を読みて云々は只何の書でもよいというのではない。

もちろん聖賢の書のことである。

この五医、自他の病状如何でどのようにも匙加減が出来る。

 

欲を少なくして迷を醫す

事を省いて忙を醫す

客を謝して煩を醫す

山に対して疲を醫す

書を讀んで俗を醫す

 

も好かろう。

 

活学語録カレンダー〈第2集〉所収

♯Ⅱ-4 本当の明徳は玄徳に根ざしたものである

 

老子や黄老派は徳の事を玄徳と言う。

徳とは万物を抱擁し育成する力であります。

それは無限であるというので玄徳というのであります。

これを儒家の方では明徳と言う。

玄徳が外に発揚したもの、つまり無から有に出たものが明であります。

 

われわれの明徳が玄徳に根ざしておれば良い。

これが本当の明徳であります。 

『論語・老子・禅』

 

 ――――――活学語録カレンダー/第2集 所収〉

♯Ⅱ-3 自ら反る

 

自己を分裂から救うには
まず自己に反(かえ)ることから始めなければならない。

そして本具する所の自性(じしょう)を徹見し、
それを十分発揮することである。

陽明学で致良知といい、

禅家で見性成仏(けんしょうじょうぶつ)というも同じことである。

 

自ら反らざれば、それは自ら反(そむ)くことになる。

いかなる時も人間としての正しい考え方は、

自分の内部に第一原因を発見することでなければならない。

 

常に自ら反る人にして真に人物として成長するものだ。―――『照心語録


 
――――――活学語録カレンダー/第2集 所収〉

 

♯Ⅱ-2 元気は天地の…


元氣は天地の大徳、

生々化育・造化の力である

 

人物の第一原理あるいは根本原理は、…「元気」にある。

元気があるかどうかが、一番大切であります。

そのまがい物が客気です。

元気というものがあって、

はじめてそれから色々の精神内容・人格内容が生まれてくるのです。

元気は、天地の大徳、つまり生々化育・造化の力ですから、

あらゆる人間内容はここからできるのです。―――――『身心の学』

 

元気実はい。
貞、(越書)る。
―――『経世言』


※衒気…ひけらかして自慢する気持ち。


 
――――――活学語録カレンダー/第2集 所収〉

♯Ⅱ-1 素行自得

 

君子は其の位に素して行ひ、其の外を願はず、

富貴に素しては富貴に行ひ、

貧賤に素しては貧賤に行ふ。

夷荻に素しては夷荻に行ひ、

艱難に素しては艱難に行ふ。

君子入るとして自得せざるなし。

 

意気地なく、或いは卑怯に、現実を逃避しないで、
正直に、着実に、勇敢に、
現在の境地に立脚して勇往邁進してゆくことを「素行」という。
素行してはじめて人間は自己を把握することができる。
これ「自得」である。

 

素行とはいうまでもなく、
心ある人々がまず各々その位、
すなわち立場々々に即して良心的に行動することである。 

 『天地有情』


                                                                                          

 ――――――活学語録カレンダー/第2集 所収〉

 

年頭自警


一  年頭まず自ら意気を新たにすべし


二  年頭古き悔恨を棄(す)つべし

三  年頭決然滞事(たいじ)を一掃すべし

四  年頭新たに一善事を発願(ほつがん)すべし

五  年頭新たに一佳書(かしょ)を読み始むべし 

(『新憂楽志』明徳出版社より)

♯Ⅱ-13 読書三上

古人は「三上」ということをいっています。


一つは「枕上」。

寝るときには、心の養いになるような、

自分の研究や趣味に参考になりそうな、

なるべく精神的なものが良い。

 

その次は「馬上」。今日なら車上だ。

 

第三は「厠(し)上」。便所です。

これは物を考えるのにやはり好い所で、

本を読むにもまことに宜しい。

其の本もなるべく短い語録のようなものが良い。

あるいは詩歌の類も宜しい。

 

どんな忙人にでも、寸陰というものはある。

…そのちょっとした時間をつかむのです。

 

『青年の大成』

活学語録カレンダー〈第2集〉所収